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2024.10.16

【連載】35歳からクリエイターの夢を実現!TAKUROMANから学ぶセルフマーケティング術

現在、デジタルポップアーティストとして活躍するTAKUROMAN(タクロマン)氏。

NFTを活用した「デジタルポップNFTアート」など、話題となる作品を次々と世に送り出し、スペイン、イタリア、フランスで展示を実現するなど、世界を舞台に活躍する同氏だが、実は数年前までクリエイターとは全くの無縁。企業で営業やマーケティングなどを行っていたビジネスパーソンだった。突如クリエイターになることを誓い、行動に移し、夢をかなえたという異色の経歴を持つ。(TAKUROMAN氏のプロフィールはこちらからもご覧頂けます)

今回、MetaStep編集部は、TAKUROMAN氏に、クリエイターを目指す学生や若手クリエイター向けコラム執筆を依頼。TAKUROMAN氏がクリエイター目指す波乱万丈な日々の中で学んだ、クリエイターとして生きていくために必要なノウハウをお届けする。自分自身をどのようにマーケティングしていくかという視点は、クリエイター以外にも学びが多い情報になるだろう。数々の困難な壁を乗り越えた結果、夢を叶えたTAKUROMAN氏の姿勢には、多くのビジネスパーソンにも勇気を与えてくれるはずだ。それでは、第1回をお楽しみいただきたい。

はじめまして、アーティストのTAKUROMANです。

僕は、35歳でゼロから漫画学校にフルタイムで入学し、絵の描き方を学び、それから数年経ち、2021年3月にアーティスト活動を開始しました。

それから3年半の間にさまざまなご縁があり、個展開催やステージでのデジタルライブペイント、NFTアートの販売、ニューヨークのNFTNYCでのスピーチ、オンラインアート講座の開講などの結果を残すことができました。

音楽アーティストとのコラボライブペイント

個展「アノヒトゴミハ、タカラモノダッタ」

作品「カンジタイ、ネツリョウ」

本連載では、これから何か創作を始めたいと思っている人、自分を売り出していこうと考える若手のクリエイター認知を高められず悩んでいるクリエイターの人たちに向けて、やめずに続けていくにはどうすればよいかどのように自分自身をマーケティングしていくのがよいか、僕の体験を基にお伝えしたく思っています。

具体的には以下のような内容です。

やめずに続けてきたこと

僕は35歳で漫画学校に入学し、卒業後は仕事をしながら絵を描き続け、それから約10年が経ちましたが、途中で何度もやめそうになりました。しかし地道に作品をデジタルで描いてインスタグラムにアップするうちに、作品は2000点を超えていました。そのうち、自分なりのスタイルができてきましたが、それは最初に始めた頃は予想もしなかったものです。よく言われるように、クリエイターにとって個性やその人らしさというのは大事な要素です。それは試行錯誤を続けるうちにやがて見つかるものだと思いますが、そのためには続けることが不可欠です。どうしたら続けられるのか、何度もやめそうになりながらもどうにか僕が続けてこられた方法をお伝えします。

マーケティングの知識

僕は仕事においてマーケティングに携わっていたため、自分の活動を自らプロデュースし、マーケティングするための知識が多少なりともありました。これについては、知っているか知らないかが大きく成否を分けると思いますが、知らない人の方が多いと思います。なぜなら、マーケティングは実践してみないとわからないことが多いのですが、通常は経験する機会があまりありません。

一般的にアーティストはマーケティングが苦手な人が多いと言われますが、考えてみればあたりまえのことです。やったことがないことを得意な人はいないからです。実はアーティストに限らず、世の中のビジネスマンもマーケティングを苦手としている人は多いと思います。

しかし、どんなに良い作品や活動でも、存在を人に知ってもらわなければ見てもらえないのです。どのように認知を高めるのがよいか、マーケティング方法についてお伝えします。

始めるのに遅すぎることはない

僕は何かを始めるのに遅すぎることはなく、誰もがやりたいことをあきらめなくていいと考えています。しかし、それは精神論だけではなく、具体的な方法論があって成り立つものでもあります。僕の場合はデジタルアートでしたが、どの分野においても共通した部分はあると思います。その具体的方法についてお伝えします。

本連載が何かを始めたい人やクリエイターの皆様の参考になりましたら幸いです。

まずはなぜ僕が35歳という年齢になり漫画学校に入学したのか、そこから書いていきたいと思います。

忘れられなかった夢

子どもの頃、家には多くの漫画が置いてありました。母が漫画を好きだったからだと思います。マンガの神様・手塚治虫のコミック単行本から始まり、小学生になると週刊少年ジャンプを愛読するようになりました。時には姉の読んでいた少女漫画も読みました。いつしか、漫画家になりたいと思うようになりました。

そもそも僕は子どもの頃から人見知りで、親しくなった人とは警戒心なく楽しく過ごせるのですが、そうでない場合、落ち着いて話をすることさえ苦手だったので、自分の世界で完結するように思えた漫画家という仕事に憧れたのだと思います。

子どもの頃に読んでいた漫画本の実物

しかし、その割に漫画を描いたことは一度もなく、受験勉強や学校の部活動、就職活動、資格試験など、日々追われているうちに、漫画家になるための行動は何もせず過ごしていました。いつしか、その夢は本気で目指すものというよりは、ただの憧れ、あるいは妄想になりつつありました。ちなみにその夢について誰かに話すことはほぼありませんでした。

実は途中、夢はゆらいだことがありました。というのも敬愛していた手塚治虫が61歳という年齢で亡くなったこともあり、漫画家とは激務ゆえに短命なのかもしれないと恐れを抱いたのです。僕が小学校6年生くらいの頃でした。ちょうど中学受験の勉強に励んでいたタイミングでもあり、中学からは部活動のテニスに明け暮れていたので、数年間は漫画家になりたい思いは息をひそめていたように思います。

テニス部での練習風景(高校)

高校生になると、学校で進路について考える機会がありました。高校1年生の頃、担任の先生から何になりたいのかと問われ、「アナウンサーになりたいです」と答えたところ、「そんなもの、なれるわけがないだろう」と一喝され、ショックを受けました。その翌年は別の担任に、「僕は小さな喫茶店の店主になりたいのです」と伝えました。今思えば、別に先生の言うことを真に受ける必要もなかったのですが、当時はよくわからず大人の言うことを信じていました。

大学では体育会系テニス部に所属しテニスばかりしていたので、夢について考える機会は薄れていましたが、大学3年生後半になり、就職活動について急に考える必要に迫られたので、何がやりたいのだろうと考えたら、「映画監督になりたい」と思いつきました。両親に話したら、「そのための勉強もせずに、今からどうやってなるのか」と言われ、あきらめました。まあ、当然の反応だと思います(笑)。

新卒で入社した大手の旅行会社では、仕事がうまくいかず、自分自身のモチベーションも上げられず、本当は何がやりたいのだろうと悩みました。考えた結果、「建築家になりたい」と思い、地元の建築科のある大学の社会人入試を受けました。幸運にも合格できたものの、それが一番やりたいこととは思えず、入学には至りませんでした。

こんなふうに夢はゆらいできたのですが、何かを作り出すことには興味があったのだと思います。

旅行会社を約2年で退職後は両親の経営する広告デザイン会社に入社しました。そこでは、僕はデザイナーではなく営業の立場でした。ちょうどその頃、キャラクターグッズなどを作る小さな子会社を立ち上げ、制作を主に中国工場に委託していた関係で香港や中国に行く機会が多くありました。もともと海外での仕事に興味があったことや、物を一から企画し生産するという業務は完成した時の達成感があり、ある程度充実した仕事生活だったように思います。

香港出張(2006年)             生産工場の視察               現地での電車移動

しかし、30代も半ばに差しかかり、「このままでいいのだろうか」と、いろいろと行き詰まり感を感じるようになりました。それに、ずっと心の奥で「いつ漫画家になる道を歩み始めるのか?」という声が聞こえているようでした。やはり、夢は消えていなかったのです。

そしてついに、

「仕事をやめ、漫画家になりたい」

と、家族や両親に伝えたのです。

―つづく―

今回は、本連載の目的と僕が35歳で漫画学校に入学した経緯の導入部分についてお話ししました。次回は、漫画学校に入学し、残酷にも知ることとなった衝撃の事実についてお伝えしたいと思います。